マイストーリー

30代の私に大きな感化を与えた方の座右の銘を同じ信仰に生きる友人が下さった書で、拙宅の小書斎にあります。
「地球視」の根底には「愛の道」があり、先輩方がおります。そのことを想いつつ、深い瞑想に入ることを大切にしています。

沢田治雄

思い出の森

家族などに話した、幼少期から学生時代のことを、再度思い出しながら書いてみました。
私のバックグランドのようなものです。くれぐれも、時間に余裕がある方のみ、ご覧いただくように、お願いしたいと思います。順不同です。
<公務員となった25歳以降の話は別途、推敲して書くつもりです>

掲載記録

40歳の時に「生命の光」500号記念誌に掲載された、私の信仰表明です(pdfファイル)

現職等(2023年4月1日現在)

公益財団法人国際緑化推進センター理事長 

公益社団法人大日本山林会副会長 
一般財団法人農林水産奨励会理事
一般財団法人リモート・センシング技術センター技術参与 
公益社団法人日本イスラエル親善協会理事 


誕生

 昭和27年5月5日 東京都渋谷区美竹町(現・渋谷1丁目)に生まれる 


学歴

昭和40年3月 渋谷区立渋谷小学校卒業
昭和43年3月 渋谷区立松濤中学校卒業
昭和46年3月 東京都立 戸山高等学校卒業
昭和51年3月 東京大学 農学部林学科卒業
 昭和53年3月 東京大学大学院農学系研究科 修士課程(林学専攻)修了

称号

 平成5年9月 東京大学 農学博士
平成26年6月 東京大学 名誉教授
2005年6月 カンボジア王国外国人騎士(SAHAMETREI)
2021年6月 森林総合研究所フェロー

在外研究

 昭和56年(10ヶ月間) 科学技術庁長期在外研究(カリフォルニア州立大学)
研究テーマ:マイクロ波による森林観測研究
 昭和61年(1年間) フランス政府給費留学(トゥールーズ第3大学国際植生図研究所)
研究テーマ:SPOT衛星データによる植生図作成研究

略歴

  昭和53年4月 農水省林業試験場 航測研究室研 究員
 昭和63年10月 森林総合研究所林業経営部資源計画科 遠隔探査研究室長
 平成2年−平成6年 東京大学農学部 非常勤講師(兼務)
 平成7年4月 森林総合研究所企画調整部 海外森林環境変動研究チーム長
 平成8年−平成14年 筑波大学 非常勤講師(兼務)
 平成15年4月 森林総合研究所 研究管理官
 平成18年4月 独立行政法人森林総合研究所 研究コーディネータ(国際担当)
 平成20年4月 東京大学教授 (生産技術研究所)
 平成25年4月 東京大学生産技術研究所 特任教授
 平成26年4月 独立行政法人宇宙航空研究開発機構 主幹研究員 
 【第一衛星利用ミッション本部衛星利用推進センター
兼務・アジア工科大学院特任教授(タイ在住)】
  平成27年4月 国立研究開発法人森林研究・整備機構 理事長
令和3年6月 公益社団法人大日本山林会 副会長
令和4年6月 公益財団法人国際緑化推進センター理事長
現在に至る(令和5年4月1日)

受賞歴

1991年5月 研究奨励賞、第30回林業科学技術振興賞 
2001年4月 研究功績賞、文部科学大臣賞:「森林モニタリング実用化の研究」
2019年5月 特賞、日本写真測量学会

1.住所と生活水準

 家族の住んでいた官舎は、東京都渋谷区美竹町3番地にあった。父が勤めていた当時の国鉄としては超近代的なアパート式官舎で、「幹部でもない者がなんで入居できたのか」と、訝しがられたと父はよく言っていた。現在は渋谷区渋谷1丁目2番地である。その住所を言うと、多くの人は渋谷の中心街を思い、「すごいところにいたね」と言う。

 しかし、実際は、6畳の部屋ひとつと4畳半の部屋ふたつで、風呂は無かった。幼い頃は歩いて5分くらいのところに銭湯があったが、高校生の時には、青山学院の近くにあった銭湯まで20分ほど歩かねばならなかった。渋谷でも冬は寒く家に着く頃は冷え切り、夏は汗をかいた。
住所で生活水準を判断するのは早計だ。

 見かけで生活を判断するのは、もっと悪い。

2.階段から落ちるのは母の想定内

 我が家は2階建て官舎の2階だったが、地上と玄関との間はまっすぐ伸びるコンクリート階段だった。登り切った左手に家のドアがあった。逆に家から出る時にドアを開けると、すぐ右手に地上へ降りる階段があった。

 階段はとても急で、しかも1段ずつ縁が鉄で補強してあり、両側は打ちっぱなしのコンクリで、。子供が掴むには高すぎたし、厚すぎ、ざらざらで触ると痛い。とても「手すり」とは言えない「壁」だった。

 そのため、子供達はよくこの階段をまっすぐ地上まで落ちた。落ちるとそこもコンクリートで広く補強されており、したたか打つことになる。兄達は何度も落ちた。私も母を追いかけてドアを開け、一番上からゴロゴロと下まで落ちた記憶が今も鮮明だ。あの階段で、まっすぐ落ちるのは想定外だったとは思えない。
しかし、母は強い、泣く我が子に、「落ちたお前が悪い」。

「想定」は人によって違うのだろう。

3.偏屈と子育て

 父は国鉄渋谷駅の改札口で働いていた。パチパチと鋏を素早く動かして切符を切っている(刻みを入れている)父の姿を見ると、おさない子供心に、いつも「すごい」と尊敬のまなざしだった。また駅名を言うと、それが九州の小さな駅であろうと即座に路賃が口から出てくることが、父の自慢だった。 

 しかし、当時の国鉄は、勤務場所を変わることと出世とが関連していたようで、父は転勤を求められていたそうだ。転勤は渋谷の官舎に住む子供達5人を転校させることにもなる。

 そのため、父は渋谷駅にずっと居座ることに決めた。偏屈な人と思われていたらしい。それもやはり後になってから知ったことである。
「偏屈」にも愛に通じる大きな理由があったのだ。

 愛を実行する者は、昔から偏屈と思われるようだ。


4.男は台所に入るな

 「男は台所に入るな」というのが母の口癖だった。実際、台所は前後左右に幅のある母一人で塞がれてしまう程度の大きさなので、母のいる台所に入ることは難しかった。
そして私はその教えをしっかりと守り、大学も自宅から通った。そのため、ひとり暮らしをする自信が、私には育たなかった。 

 就職してすぐ、お金もない時に一緒になってくれた妻のおかげで、研究生活が送れた。

 時代は変わり、台所まで食器を片付け、たまには洗うこともある。

50年後のことを考えた教育は難しい。

 森林の育成にはさらに長い年月がかかる。将来を思って植林し、森林を育ててきた人々にしばしば心を馳せようになったのは仕事を通してである。

 現在期待される機能を持つ森林はどのくらいあるのだろうか。


5. 4畳半の祈り

 20歳まで家族と暮らした渋谷の国鉄官舎には3つの部屋があった。4畳半と6畳の畳の部屋、そして4畳半の板の間である。ベランダは、金魚鉢と十姉妹の小屋で塞がっていた。
 4畳半の畳の部屋に仏壇があり、天井近くに端から端まで板が渡され、なにやらかにやら、祭られていた。特に母と私の祈りの部屋だったが、母と妹の寝室でもあった。 
 小学生の頃までは、この祈りの部屋で祈っていた。どのくらい祈ったかを知るために数珠を使っていた。お経はいくつも暗記して、中学生の頃には、どこでも祈れるようになっていた。
 祈りのうましさは。内なる宝だった。
 家を訪ねてくる人を、祈りの中で何度もはっきりと予見した。幼い私にとっては、他の人がなぜわからないのか、その方が不思議だった。目をつぶってその人のことを思えば「今日来るかどうか見える」のに。今は、残念だが、メールに頼っている。

6.勉強部屋の洗濯機

 板の間の4畳半の部屋が5人の兄弟姉妹の勉強部屋だった。多い時には4つの机があり、私が高校性の時には3つの机と2段ベッドが入れられていた。さらに2段ベッドと私の机の間に二層式洗濯機があった。そのため隙間は40cmくらいで、そこに木製の丸いすを置いて机に向かっていた。

 そこで勉強していると、母は洗濯ができず、「まったく、邪魔だよ」とよく言われた。「洗濯は家族のこと、勉強は自分のこと」だと言うのだ。7人分の洗濯は毎日山ほどあった。

 当時はこの環境を(素直に?)受け入れていた。洗濯が始まりそうになると、私は立って本を読んだり、近くの児童会館へ出かけたりした。
人は与えられた環境下で、よい環境を探して生きる生物だ。

 アマゾンの森で、良い環境を求めて動く「歩く木(walking tree)」と出会った時、妙に親しみを覚えた。木でさえ、動き回るのだ

 


7.臭いものに蓋

 昭和30年代前半には、国鉄(今のJR)山手線に沿って、明治神宮表参道(原宿)方面から流れてくる渋谷川を駅近くの橋から見ることができた。昔は川遊びができたと聞いたこともある。
しかし、当時は流量は少なく、両脇にはごみが滞り、異臭がして、幼い私には立ち止まって眺めたい川ではなかった。

 いつの間にか渋谷川は塞がれ、表参道方面と渋谷を結ぶ遊歩道となったが、それが東京オリンピックのためだと知ったのはずいぶん後になってからである。
今は、周辺の汚水処理が整って暗渠の中を比較的きれいな水が流れているという。もともと源流は清いが、周辺の家庭などからの汚水処理整備が間に合わないので、とりあえず蓋をしてから解決が図られたのだろう。

 「臭いものに蓋をする」という言葉で思い出す、都会の故郷だ。


8.田舎と原風景

 父は千葉県成田市の農家の三男坊だった。敗戦後に中国から帰って東京で働いたが、本家とも頻繁に行き来していた。
特に私は幼少の頃に体が弱かったため、田舎で過ごすことが多かった。「成田の田舎」と呼んで、小学校に入る前から一人で行っていた。父の兄姉の家を渡り歩き、畑に行って鍬や鋤で大人のまねごとをして遊ばせてもらった。ぬかるむ細いあぜ道を歩いたり、田んぼに入ったり、畑を歩いたりして、素足に伝わる感触を楽しんだ。
そして、蝉の声、カエルの大合唱、澄んだ空気、木々や草花に安らんだ。こんな田舎の原風景と素足に伝わる大地の感触は日本人のDNAに刻まれているのではないだろうか、と今も思う。

 全世界の人々にも、地域特有の原風景があるのだろう。しかし、空、太陽、月、星、そして闇は、全人類に共通して影響を与えて来たのではないだろうか。


9.木登りと常識

 父の実家の庭には大きな柿の木があり、木登りにはにうってつけの枝ぶりだった。登っては、お婆さん(父の母)に叱られた。「石ら!」、(??、、)。「いしら!」は私たちに呼びかけるおばあさんの緊急用語だったが、私は何度言われても意味がわからず、怒鳴る婆ちゃんの剣幕でおそるおそる木を降りた。

 渋谷の家の近くでも木登り遊びはよくやったが、小さな木しか無い。そのため、田舎に遊びに行くと大きな木に登って遊んだ。柿の木は枝が折れやすい上に、堅い根っこがたくさん地表に出ているので、柿の木での木登りは本当にあぶないと知ったのはずいぶん後になってからだ。
言葉を理解できるかどうかは、生命にかかわることもある。

 自分の常識が通じないことは、世界には結構ある。こどもを叱るのは良いが、「いい子だ」と頭をなでることが決して許されない国もある。

 常識を拡大して、実際に身につけておくことが、言葉の通じないところでは特に必要だ。


10.バケツ一杯のザリガニ 

 成田市赤荻の叔母の家の前には小さな池があり、ザリガニがよくとれた。最初の一匹を何とか捕まえ、その腹の肉を糸で竹に結ぶと釣り竿になり、面白い様に次々と釣れた。釣ったザリガニをバケツに入れ、いっぱいになったら逃がしていた。

 ある時、伯母さんが何か話しかけてきた。訛でよくわからなかったので、適当に「ウン」と答えたら、バケツを持っていかれた。しばらくして、「ホラ!」と差し出されたものを見て、「ワッ」と叫んだ。バケツ1杯の、ゆでたての、真っ赤なザリガニ!

 叔母は「茹でるんダッペ」と言ったのだ。ザリガニを食べると思っていなかった小学生の私はショックで涙が止まらなかった。
適当に「ウン」と言ってはならないと、心に決めた。


11.身近で異文化交流

 母は新潟出身で、母方の親戚は新潟に多い。渋谷に叔父と従妹が遊びに来た時には、何を言っているのか聞き取れないことが多かった。

 テレビで相撲を観ていて叔父が「おっとかったや」を連発。「あれってどういう意味」と母に小声で聞いた。「あれはね、やっとかったや、と言ったの」と言われても、それが「やっと勝った」を意味していると分かるのに若干の頭の体操が必要だった。不思議さがまさり、笑うことはなかったが、一緒に遊ぶのはどうしたらいいか、と真剣に思ったものだ。
私は大学生になって、友人を連れて、新潟の母の兄弟の家を訪ねた。
異文化交流は親戚からはじめると良い 。日本の中でも、はじめての食べ物や文化に出会うことができ、対応方法を体験できる。

 海外では「言葉が通じない、そしてすべてが目新しい」のは当然だ。でもそれらにとらわれない術は、日本で学んだ気がする。


12.国体護持の心意気

 物心ついたときから経を唱えることが好きで、学芸大学駅にあった日蓮宗の道場「妙安教会」によく通った。小学生の時まで自宅の4畳半の部屋で経を唱えるのが日課だった。少なくとも1日に2時間ほどは祈っていただろう。そして、身延山とその裏山の七面山に毎年登り、宿坊で雑魚寝した。
街の小さな道場でありながら、敗戦後のGHQの統治下に「国体護持」と書いた宝塔を密かに七面山に寄進したことなどを聞き、幼いながら信者たちの心意気に感じることがあった。家族旅行はこの身延山しか思い出せないが、毎年待ち遠しかった。
単にお経を唱えることに少し疑問を感じ、経本の解読を試みるようになったのは高校時代である。

 内容を知る以前に、子供にも祈りの世界は開かれる。魂の世界は理屈ではなく体験の世界だ。子供の育成には、知識と体とともに、魂の育成が欠かせない。


13.宗教道場のあと継ぎ

 東京の学芸大学駅から子供の足で10分ほどの所にあった日蓮宗の道場に家族で通っていた。特に母は熱心な信者で、冬には黒装束で団扇太鼓をたたきながら渋谷の街を歩く寒行も行っていた。
また私は生まれた時に「坊さんの生まれ変わりで寿命は10年だ」と言われたこともあって、両親は私を道場に養子として差し出した。赤ん坊の時に道場まで私を連れて行き、その意向を伝えた時に、「子供さんは両親の元で大きくなるまで育てた方がいいでしょう」と言われて連れ帰ったと聞かされた。 そのことを知る前からその道場を私が継ぐことは、多くの信者に望まれていることだと感じていた。

 今は、イエス・キリストに捉えられて歩んでいる。その経緯は別に記したい。

 信仰の道場などがあると、その場のあと継ぎが問題となる。残念だが、あの道場はもうない。


14.原因不明の病気入院

 体中のふしぶしがものすごく痛くなって、新宿の国鉄中央病院に入院した。原因不明だった。小学5年生の3月(10歳)の時だ。生まれたときに「この子は10歳で亡くなる」と予言されていたので、両親は非常に心配したそうだ(私はそんな予言は知らなかった)。
日蓮宗の読経は好きな日課だったので、自分の経本と、テカテカに輝いている数珠を誇らしげに持って入院した。病院としては珍しい子だったろうが、私にはごく自然なことだった。病院では、静かになら、好きなだけ経を唱えることができた。
原因不明とは、その時の人知で説明できないだけのこと。生涯に「原因不明」のできごとは多々ある。

 結果から原因を探しても、根本原因を知ることはほとんどない。「神のみぞ知る世界」が人生だろう。

15.病室のお兄ちゃん

 新宿の国鉄中央病院に入院にした部屋には5~6人の子供たちがいた。病室ではベッドを渡り歩いて仲良くしていた。私のベットの斜め向かいには、少し年上の肌の白い男の子がいた。入院して1か月ほどたった4月1日、その子が「本当は僕は今日から中学生なんだ」とぽつりと呟いた。

 その時、私の内側で何かが起きた。日々の祈りは変わり、そのお兄ちゃんのために一日も早く退院することを願って数珠をくって祈り続けた。

 翌週の検査では私が癒されていた。原因不明の病気が原因不明で治ったのだ。それからもしばらくあのお兄ちゃんのために祈っていたが、祈りの不思議さを体験した気がしている。

5月の11歳の誕生日は家で迎えることができた。 あのお兄さんが私の救い主だったと、今は思える。


16.良い思い出は色あせない

 母は自分の字に劣等感があったようだ。そのため「字がきれいに書けるように」というのが、子供たちへの思いだった。幼稚園には行けなかったが、小学生になると兄弟はみな書道塾に通わされた。
5年生の時、書道の先生が選んでくれた書を全国書道大会に出展したら金賞となった。上野の展示場まで親と行って、自分の書の上に大きなリボンが貼られているのを見たときは、胸が熱くなった。そして、小さな木箱に入った直径5センチほどの「金メダル」を手にした。

数年するとメッキが剥がれて黒ずんだメダルとなったが、大きな展示場で貼られたリボンが瞼に長く残った。副賞はもうどこにあるかわからない。

 賞状を手渡す立場になって「心に残るリボン」をあげたいと思うようになった。副賞にも心を込めることはできるが、メッキのメダルはやめたほうが良い

17.恐怖の宙吊りと学生服

 中学は渋谷区立松濤中学校だった。学生服は兄のお下がりだったが、学生服を着られることが嬉しかった。二人の兄達は「番を張っていた」と言われるほど有名で、教室まで挨拶に来た上級生がいた。「兄さん達にお世話になりました!」、「、、?」。「兄貴たちは正義の味方」だったらしい。

 先生達にとって、最初は私は要注意人物だったようだ。若い先生に3階の窓から逆さ宙づりにされた。学生服も乱れてめくれた。その時にようやく気づいたのだが、学生服の内側はぼろぼろで、内布もめくれた。落ちる恐怖よりも学生服の内側が気になった。先生もそれに気づき、逆さ宙づりから私を戻して立ち去った。なぜ宙づりにされたのか、今でも理由に心当たりはない。

 兄の服が助けてくれたとも言えるが、、、学生服は母が繕ってくれた。

 恐怖は別次元のことで消える可能性がある。何が頭と心を占有するかが問題だ。


18.兄弟は同じではない

 中学では部活動を選ぶ。5月生まれなのに、私の体は学年で小さくて弱い方だったので、運動部に入って少し鍛えた方がいいと自分でも思った。
長兄が中学で剣道部に入り、高校でも続けていた。兄の剣道着姿はかっこよかった。防具は学校で貸してくれるので剣道着さえあればお金もあまりかからないという。それで、決めた!剣道部。
小学6年生で病気が治って退院した時には新学年が始まっていて、部活はもう音楽部しかないと言われた。少ない男子は大太鼓かシンバルの担当だった。運動会ではマーチングもしなければならなかった。あまり楽しいとは思えなかった。

 そこで中学では早めに部活を申し込んだが、「沢田たちの弟」ということで、少し議論があったようだった。

 兄弟は違う者だ。たとえ二人の兄弟が同じようであっても三人目は違う。兄弟姉妹は同一視しないようにしよう。


 19.中学時代の高等数学

 中学生の時、 大学の数学科で使う「スミルノフ高等数学教程」を数学好きの三人で勉強した。小遣いでは1冊を買うのがやっとだったが、「ゼロの定義」から始まる純粋数学の虜となった。そして次第に様々な数学の問題を解くことが楽しくなった。数学に手を出すと徹夜になることがあるのは、小学生のときからだった。 

 ずいぶんあとで見返した時に気づいた が、出典に<大学院数学科入試問題>もあった。中学の時は出題者のことは気にもせず、楽しんでいたのだ。この友人二人は大学で数学科へ進み、その後も数学関連で活躍している。私もそうなりそうだった。中学生の自由勉強の影響は強い。 

 数学の世界に、友人たちと夢中になれたことは良かった、と思っている。もちろん、井の中の蛙にすぎなかったのだが、ひとつの教科に自身を持てたことが、いろいろな挑戦に余裕を与えてくれた。 

20.通学で自己満足を生む

 自宅と中学校は渋谷川を挟んで反対側にあった。自宅から1kmほど坂を下って、次に1kmほど坂を登る。その道を、雨の日も風の日も走るように通学した。おかげで気づかないうちに足腰が鍛えられていた。中学の持久走は自己満足できる程度だったし、高校では高跳びが自己満足できた。
 中学生の時にその効果を考えていたわけではないが、山の中を歩き回ることを仕事にできたのも、体が造られていたおかげだと思っている。
 通学・通勤時に早足で歩けば、早く着くし、体力もつく。同時に複数のことに役立つことをするように勧める人もいるが、そうでない人もいる。私は、気づかないうちに、前者を体験してきたようだ。

 またいつの間にか持てるようになった「自己満足」は良いカンフル剤だった。

 ただし、今の渋谷のような雑踏では早足で歩けない。どんな工夫をしただろうかと考えてみても、自己満足を生み出すアイデアは浮かばない。この種のアイデアは体験の中で生まれてくるものだろう。


21.高校入試と社会ルール

 兄たちは都立高校に進学していた。自分も親も高校の違いには無頓着で、「都立高校に行く」としか考えていなかった。担任の先生が呆れて「沢田くんは都立22群を受けなさい」というので願書を出した。我が家で受験させてもらえるのは都立高校1校だけだった。当時は学区制だったので、22群に受かると青山高校か戸山高校に割り振られる。青山高校なら歩いて通えるので、先生が選んでくれたと思っていた。

 ところが、結果は戸山高校だった。戸山高校に行きたかったクラスメイトがいた。そこで二人で先生のところへ行き、「取り替えてもらいたい」とお願いしたら、「お前たちは馬鹿か」と言われてしまった。社会のルールと自分たちの理屈との違いを体験したことだった。

 青山高校は学園紛争が激化してロックアウトなどがあり、大学進学は大変だった。私はラッキーなくじに当たったようなものだ。

 ここは人生の大きな分かれ目だったと、後になって思わされた。「導かれてきた」と思わされるようになって、「ああ、そう言えば」と思い出すひとつだ。


22.高校の先生

 都立戸山高校は高田馬場駅から徒歩10分位のところにある。早稲田大学工学部が目の前で、学習院女子高・短大が隣にある。

 戸山高校では銀の懐中時計を使っている数学の先生がいらした。その武藤徹先生の机に、あの「スミルノフ高等数学教程」の本が全12巻並んでいるのを見て、私は息をのんだ。そして、授業では教科書は使わず、「ゼロの定義」のガリ版が配られた。先生に心底、憧れた。

 受験数学の神様と言われる先生もいらしたが、その時間はサボって屋上で別の数学を勉強したり、寝たりして、隣の学校から何度か通報された。
高校時代に学者先生と毎日のように接することができたことは、大きな刺激だった。


23.カタカナ日本語

 高校1年の時にクラスの文化祭実行委員長になった。多数決の結果、テーマは「CM」となったが、これが「コマーシャル」の意味だと分かったのは多数決の後だった。家では「CM」と言うことはなかった。

 どのクラスも工夫を凝らしてそれぞれのテーマに取り組んだ。見学者も結構来て、クラスは喜んだ。そこで、文化祭のご苦労さん会を喫茶店でしようという提案があった。
高校近くの「喫茶店」で、私は初めて「メニュー」をみた。「何にしますか」と女性の店員さんに言われて、少し気の利いたものを頼んでみようと思った。コーヒーは飲んだことがないし、別のカタカナのものは、「ホットミルク」。出てきたのは、当然「温めた牛乳」だった。

「喫茶店」というところで「温めた牛乳」があるとは思っていなかった。また、家では牛乳を温めてもホットミルクとは言わなかった。

 カタカナ語は苦手だ。


24.高校は全科目必修で

 都立戸山高校はほぼ全科目必修だった。理系、文系の区別はなく、東京芸大を受験する同級生も現代国語、古文、漢文、英語はもちろんのこと、理科・社会の全科目、数Iから数IIIまでも必須だった。選択科目は芸術と第2外国語だった。私は書道とドイツ語を選択した。

 体育でも多くのスポーツを経験した。サッカー、フットボール、水泳、剣道、柔道、テニス、バトミントン、つり輪、鞍馬、平行棒などなど、体験なくしてスポーツを知ることはできない、ということで、それぞれのスポーツに専門の体育の先生がいらした。

 毎年のクラス会に今でも多くのクラスメイトが集まり、高校時代の話で盛り上がる。高校生を引きつけるユニークな先生も必要だが、高校時代に様々な知識と体験の積み重ねができたことは非常に良かった。

。 


25.二人の兄の応援

 クラスの男子全員が大学進学を希望していることを知ったのは高3の夏頃だった。三者面談で「就職する」と言った私と母へ、驚いた担任が少しどもりながら教えてくれたのだ。戸山高校は中学の担任の先生が決めたので、「戸山高校は進学校」の意味をようやく知った私たちだった。

 通学時にも黙々と英単語の暗記に取り組んでいる同級生を目にするようになって、自分の道を考えることになった。

 そして私の思い悩む姿が兄たちを動かしたようである。高校を出て働いていた二人の兄が「お前は大学に行ってもいいぞ」と言ってくれた。受験料と入学金は出してくれるというのだ。

 兄たちをはじめ、周りの人が私に大学への道を開けてくれたのだった。

 周りの人々にはいつも感謝しかない。


26.絶対失敗できない大学受験

 二人の兄は高卒で働いて家計を助けていた上に、私の入学費を出してくれるというので、大学入試に「絶対」失敗できない。そのため、私は「家から通学できて、絶対に受かる公立大学」を受験する必要があった。そこで、自分自身はかなりレベルを落としたつもりで、御茶ノ水にある教育大学を受験した。受験勉強をしていないのに自信だけはあったものだ(教育大学は、後に筑波大学となり、今は自宅から歩いて数分の所にあるので、当時を思い出させる)。
過信は禁物である。「絶対大丈夫」はこの世にはない。不合格となった時のショックは記憶に無いほどだ。
それでも兄たちと両親は浪人を許してくれた。「就職しろ」と言われていたら、そうしたかもしれない。私は弱々しかった。そして、兄たちは良い理解者だった。


27.児童館の学習室

 予備校へ行くお金は無いので、自宅で浪人(宅浪)となった。当初は気落ちしていたものの、苦痛を感じた記憶はない。朝4時ころから自宅で勉強をはじめ、朝食のあと、おにぎりを持ってすぐ近くの児童館へ行き、学習室の低い机で勉強した。昼過ぎになると隣の渋谷小学校から子どもたちが来るので、いつの頃からか勉強を教えていた。

 予備校に通う友人たちが、度々「見舞い」に来てくれたが、いつも小学生を相手にしているので、「沢田はダメだ」と噂になっていたらしい。母校の小学生に勉強を教えるのはいい気分転換だった。子供たちに教えて児童館を出るころには楽しい気分になっていた。
何を楽しいと感じるかは人それぞれ。楽しみがないと宅浪は続かない


28.浪人時代の友

 勉強していた児童館までちょくちょく来てくれた友人たちがいた。中学の時に「スミルノフ高等数学教程」を一緒に勉強した友人は大手の予備校に通っていたが、「入校チェックはしていないから予備校に潜り込める」とも言ってくれた。
そんな友人達と、渋谷の街や、代々木公園、原宿などを、月に数回、歩き回った。これも、結構良い気分転換だったのだろう。友人たちの存在も大きかった、と今は思う。(代々木公園ではたびたび1周ぐるりと回った。1971年のことで、裏門付近は普段は人が少なかったが、時々、予想外に人がいたことがあった。もしかすると、今の教友たちとすれ違っていたのかもしれない。)

 友人たちは、行く大学はそれぞれ違ったが、毎年一緒に旅行に出かけたりした。その友の一人は、もう地上にはいない。目をつむると友の顔も浮かぶ。


29.「大学校」の発見

 浪人をして進路を自分で考える余裕も出た。なんと、給与をもらいながら勉強できる「大学校」があることを知った。「気象大学校」だ。

 初級公務員の給与をもらいながら4年間勉強できるというのは私には「大発見」だった。親や兄弟に迷惑かけずにすむ。1学年は10名くらいで、1学年ではサッカーもできないのが気になったが、それ以外は最適に思われた。自分の行くのは気象大学校だ、と決めた。 

 自分がした大きな決断だった。勉強の中身は少し変わったが、大学受験の浪人から、就職浪人になったのだ。1年遅れて就職するだけのことで、気分的にもすごく楽になった。受かっていることを想像しながら、さらにウキウキと勉強できた。


30.親の喜ぶ大学進学

 行き先は気象大学校に決めたが、「1浪したのだから同級生が現役で入った東京大学も受かるはず」と自然に思った。そこで、その証拠のために東大も受けることにした。
まず気象大学校から合格通知が届き、飛び上がるほど嬉しかった。

 東大の発表は一人で確かめに行った。合否どちらでも電話をするようにと父に言われていたので、「受かったよ」とだけ電話で伝えた。
家について両親にお礼を言い「気象大学校に行きます」と伝えた。すると父が「ダメだ」という。私の電話を受けてから親戚中に「息子が東大に受かった」と電話しまくったと言うのだ。あの時の父の姿を思い出す。自分の決断に固執することは当時の私にはできなかった。気象大学校も難関なのに


31.大学の第2外国語

 大学では第2外国語を選択するが、「高校でドイツ語を勉強したから、大学での第2外国語はフランス語にしよう」と考えた。そして、必修ではない第3外国語をドイツ語にした。

 大学入学時の姿勢は真面目だったのだ。第2外国語をドイツ語にしたら良い成績が取れたはずと思うようになったのは、フランス語で不可を取ったときだ。フランス語は結構ハードルが高かった。小説が読めるだけではなく、ものすごい数の不規則変化もしっかりと勉強しないとフランス文学専門の先生の試験は通らない。でも、そのベースがあったので、後のフランス政府給費留学につながったのだろう。
無駄なことはなかったと思わされることは多いが、これもそのひとつだ。


32.アルバイトで人を知る

 教養課程の2年間を過ごす駒場は自宅から2kmほどだ。母校・松濤中学校の前を歩いて通った。お金はいらない方だったが、動物の解剖道具などを買うにはアルバイトが必要だった。大学にはアルバイト募集の張り紙があったのでいろいろなバイトをしたが、どこも特別待遇だった気がする。

 毛筆での宛名書きは教授の依頼で、学生がやったと分かると予定金額以上のアルバイト料がいただけた。金属加工場ではちょっと浮いた人に目をかけられ、その人のお相手をするだけで、他のアルバイトのように思い金属を運ぶことはなかった。夏には八戸で1ヶ月ほど合宿して塾で教え、十和田湖旅行や、キリストの墓への小旅行などに行けたりした。自分は塾に通ったことがないのに、教えてお金をもらっているのも不思議な感じだった。

 学生のときにいろいろとアルバイトをみるのが良い。


33.直感が進路を変える

 3年生から専門課程が始まるので、大学2年の1973年に専門を選択することになった。数学者の道も脳裏にまだ強くあったが、突然、「生き物」を対象としたいとようになった。何故そうなったのか、理由は今でも思いつかない。そして「今更、動物はないだろう、植物ならどうだろう、、」と考えあぐねた。

 その時に目にしたのが、「人間の眼で見えない光で植物の健康度を見る」という中島巌先生の近赤外写真の新聞記事だった。直感で「これだ!」と思って進学相談室へ駆け込んだ。調べてくれた結果が「農学部林学科」だった。
考えたこともない学科名だった。第2志望にしても行けそうな学科だ。しばらく悩み、他の学科も調べてみた。しかし「これだ!」と直感した時の感動は、どこからも得られなかった。そこで林学科へ進むことに決めた。その年は第1志望でなければ行けなかったことを進学して知った。
その後も直感は大切にしている。


34.専門は森林航測

 当初、林学科全体に対する関心は沸かなかった。専門課程が始まった4月に、中島巌先生が勉強した研究室を訪ねて「私は中島先生に学びたいので紹介してほしい」と言うと、教授は「半年間は林学科の勉強をしなさい。半年後に気が変わっていなかったらまた来なさい」と回答された。そこで、半年間は林学全般を学び、半年後に再びその先生を訪ねた。
すると、「そんなこと言いましたかね」と言われてしまった。これにはビックリしたが、これが大学教授だ。大学で自分のやりたいことを見つけたら押しまくること。それはわがままではなく、積極的だと判断される。私は行儀が良すぎたらしい。
中島先生のいる林業試験場を紹介され、私のやりたいことが「森林航測」という分野であることをようやく知った。そして大学3年後期からは半分以上の時間を目黒の林業試験場で過ごすことになった。 

 それでも、半年間「林学」を勉強したことは、その後の私にとってたいへん良かった。


35.知識と情報ソースの重要性 

 林学科では、夏に、植物学、造林学、測量学など、大学の演習林での実習がいろいろある。

 植物学実習では、細い山道を25名の学生が1列になって進み、先頭の教授が近くにいる学生に、「イロハモミジ」などと言い、学生はそれを切り取って、次の学生に「イロハモミジ」と伝える。各自が一枝を集めるのだ。そして夜、宿舎で学名を調べて新聞紙に挟んで標本とする。その時に問題が2つ生じる。まず、同じ袋に詰め込んでくるので、どれが何かわからない。私は植物を知っている者の助けを借りないと終わらない。もう一つは、「イロハモミジ」と言って指された木が、伝言ゲームのように 誰からか隣の木に変わってしまったり、メモする名前が変わったりする。結局、袋の中からコナラの枝が2本でてくるが、イロハモミジが見当たらない、ということになる。

 実習は、知識を持つ友の大事さ、そして情報ソースの大切さを知ることになる


36.東大生の木登り体感

 樹木の経済的な価値を上げる方法として、枝を早めに落として生育させ、節の少ない材を生産することが行われている。そのためには真っ直ぐに伸びるスギなどの枝を10mほどのところまで落とす必要がある。

 「作業する人のことを知る必要がある」との教授の指示で、枝打ち体験が課せられていた。山の斜面にある造林地で、10m近くまですでに枝が払われているスギにノコギリを持って登り、枝を伐り落とすのだ。

 どうやって登るか?ここで見せられたのが「ブリ縄」だった。これは10mほどのロープの両端に50cmほどの棒が結ばれたもので、木の棒部分を樹木に巻きつけて登る。一段登ったら下の棒を外して上の方に巻きつけて登る、ということを繰り返すのだ。そして最後は、木に巻いた棒の抵抗を支えに、ロープで下まで滑り降りる。そして下からロープを振ると支えとなっていた棒がぱらりと落ちてくる。棒と木との抵抗力を体感することになる。

 大学生になって木登りをするとは思わなかったが、人に指示する前には自分も体験しておくべきだという言葉は忘れない。また、降りられずに、セミのようになった者がいたことも記憶から消えない。


37.周りにマツタケがある 

 測量実習では実際に山を一周回る。ポールを持った者が先に行き、ある者は単眼鏡を覗き、ある者は方位角や高低差を記録するなどを続ける。そして、夕食後に宿舎で手回し計算機(タイガー計算器)を使って測量図を描く。作業に時間がかかるので、チームによって終わる時間はマチマチだ。

 どこからかいい匂いがしてきた。先に仕上げたチームが酒盛りをはじめたのだ。それにしてもこの匂いは何だろう。匂いの元に行ってみた。炭で焼いているものがある。松茸だ!。「沢田、食べるか」と言われて割いた松茸をもらった。美味かった。あれ以上の松茸はそれ以後も記憶にないほどだ。

 そのチームの何人かは測量中に下を見続けて、松茸を探していたというのだ。翌日からは私達のチームも松茸探しが始まった。単眼鏡を覗くだけではいけない、周りを見る余裕が必要だ。松茸があるかもしれない。

 そして、単眼鏡を覗く者も、ポールを持つ者も、地面を探す者も、炭で焼いた松茸を分け合った。


    38. 実学とは

 森林の経営・経理を専門とする平田種男先生の1時間目の授業で「林学は実学です」と言われた。
 キョトンとしていると、「お金をかけて山に木を植えて、成長した木を売って金儲けしようとしても、無駄です。お金を増やしたいなら銀行に預けたほうがいいです」と続けられた。「樹木を売った収入の中から植林費を出すのです」。つまり、伐採をスタートとして植林することで、持続的な森林経営となる、と言われるのだった。もしも伐採して森を修復しないなら森からの略奪だ。
 学生の時は実感がなかったが、実際に山の仕事を目にすると、「実学」の意味を考えさせられることが多い。
 「山から何かを得て山に返す」ことは、木材の問題だけではなく様々なことで大切だと、今は思っている。森林を対象とする研究も論文を書いて終わる「略奪研究」ではいけない。「森林から研究成果を得て、少なくともその一部を森林に返す」ことを気にかけていると、持続する森林につながるのだろう。

39.先生のいない研究

 林業試験場に通い始めると、アルバイトとして雇ってもらえるようになった。近赤外フィルムを使ってマツクイムシ被害木の写真を撮影し、人間の目で分かるよりも早くマツの具合を知る方法の開発研究などを手伝った。

 しばらくして中島先生から科長室に呼ばれた。そして、4枚セットの白黒写真を出して、「どうだ、これをやってくれないか」と言われた。「これらは、なんでしょうか」。「人工衛星からの写真」。

 それは、私が大学に入学した1972年にアメリカから打ち上げられた地球資源探査衛星アーツ(ERTS: Earth Resources Technology Satellite)が捉えた中央アフリカの写真だった。それらを合成してカラー写真にし、森林を判読するのだ。「まだ日本では誰もやっていない」と聞くと、「やらせて下さい」と私は言っていた。それ以後は、専門の先生のいない研究となった。


40.就職

 4年生になって、「林業試験場に入る試験を受けないか」と声をかけられた。当時は学卒者が林業試験場に入るには、国家公務員試験上級に合格する必要があった。

 それでも、「はい」と応えると、「でも来年採用は無理なんだ。2年間大学院へ行っていて欲しい」とのこと。すぐに頭に浮かんだのは「親と兄たちにどう話すか」だった。

 予定できる仕事は、林業試験場のアルバイト、家庭教師、そして塾教師の仕事だ。収入をざっと計算すると、会社員の初任給と比べても奨学金が残るくらいの余裕が見込めた。そこで4年生で試験に合格しておいて2年間保留する制度を利用することにした。それで、家族の了解を得ることができた。

 結局、高校・大学・大学院・就職は、他人に示された門を開けてきた感がある。

 方向を変えられたのは、ひとつの新聞記事である。